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■奈良 天川 栃尾観音堂(2016.04.17)

本日の目的、天川村の栃尾観音堂。
円空作の仏像を祀る、というので拝観。

四体安置。
向かって左から、弁財天立像、聖観音菩薩立像、金剛童子立像、護法神像。
とくに中央の聖観音菩薩がここのシンボルのようだ。
まだ、人が少ないうちに、じっくりと撮らせてもらった。

今日は、「円空まつり」ということで、読経流れる観音会式(かんのんえしき)が取り行われるとともに、ビンゴ大会、餅まきも開催。
オニギリ、オデンや振る舞い酒もあり、村民だけではなく、訪れた人たちにとっても楽しい一日であっただろう。

最後に、観音堂脇の看板に記された説明書きをここに全文転載する。
 
■円空佛について
 江戸時代に、日本民族に固有の庶民宗教を保持し、庶民教化を衆生救済のため、心ひそかに十二万体の仏像彫刻の悲願を立てて、日本全国をくまなく行脚し、驚くべき、創造的なエネルギーと造形美を以て日本の民衆の苦しみと悲しみ、喜びと怒りを余すところなく、うたいあげたのではないかと思われる。「円空上人」が刻まれたうちの仏像四体が、当栃尾観音堂に、お祀りされております。
 荒削りの力強い、「のみ」のあとや丹念に小刻みに削られた「ノミ」のあと、また、その鋭い刀法の冴えとは逆に、目もと口もとに漂う微笑の優しさは、しべてが特別な美しさに輝いて拝むものの心に強烈に響くとともに、非常に親しみやすい美しさと素朴さを感じさせます。
 三百年余年前から村人の厚い信仰によって守られてきた栃尾観音堂の御尊体は弘法大師の一夜の作と伝えられてきたのであるが、昭和三十九年頃より円空佛に深い関心を寄せていた地元の一部の者が円空の像ではないかと、熱心に問いかけていたところ昭和四十七年秋の学術調査となり、これによって江戸初期の遊行僧「円空」(1632〜1695)の作であることが確認された。
 「円空上人」は寛永九年(1632年)美濃国中島郡中村(羽鳥市上中町)で生まれ、慶安三年に数え歳十九歳で仏門に入り修行の後祈祷僧として寛文元年(1661年)上人三十歳の頃より生涯を旅に過ごし、庶民の中に生き抜かれた無名の遊行僧であったが、旅の間に農民や漁民の信仰にこたえるために神仏の姿を刻んで与えるという宗教的動機から彫刻に志したものであり、このため、その作品は無欲無心の、すぐれた芸術として私たちの心をうち、深い感動を与えすにはおかないのであります。
 昭和四十八年七月二十日より八月十四日まで、東京に於ける朝日新聞社主催の「円空・木喰展に出展されるや、三百余年の泰平の夢から一躍文明の世に出られた“栃尾の円空佛”はたちまち多くの人々から讃仰されるところとなったのあります。
 因みに当観音堂に祭社の御尊像は左の通り(※下記の通り)であります。

一、聖観音菩薩立像(杉) 137cm
  背面に内ぐりがあり胎内仏(大日如来坐像5.6cm)と仏舎利一顆及び銘記の紙片一葉が納められている
一、大弁財天女立像(杉) 85.6cm
一、金剛童子立像 (杉) 84.3cm
一、護法神像   (杉) 49.7cm

(栃尾観音堂)

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栃尾観音堂

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聖観音菩薩立像

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聖観音菩薩立像

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弁財天立像

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金剛童子立像

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護法神像

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